PC(パソコン)に置いて、全てのスタートはテキストの扱いだと思うのは、おじちゃんなのでしょうか?
初めて本格的にテキストに向かったのは今から、40年前の1980年初頭、
CP/Mと呼ばれた PCで、そのプロセッサの性能は、近年の、マウスや、キーボード内に組み込まれたチップよりも低い性能である、8bit 4MHz といった性能だった、信じ難いがZ80 と呼ばれたプロセッサで、最強と呼ばれた代物だ。がしかし、そのOS(operating system今で言うWindowsやmacOS の礎となったOSでその中に含まれた数少ない標準アプリのEDと呼ばれる、テキストエディタ・アプリで、異質な操作フィーーリングであった。
そのアプリでは、絶対的な勿論がいくつかありました。
勿論1)日本語は入力出来ません。
勿論2)カーソルキーは使えません、そもそも当時のそれに矢印キーは無かった。
勿論3)メニュー画面なんて有りません。
勿論4)ファイルのオープンや、保存は、ショートカットキーと呼ばれるキーの組み合わせによる操作で行います。
パソコンというか、それまでの慣例に習った、業務用汎用コンピュータと同じ的な操作です。
勿論5)すこぶる不便ですが、これしか無いという事で、諦めるしか有りません。カチャカチャと、当時のコンピューターのキーボードは、キーを押した沖野ストロークも深く、いかにも仕事推しているという感じの打刻音が特徴でした。
で、テキストを打ち込む際に文章の配列を見やすくするための工夫が、タブキーによる。パラグラフ(段落)を使った、テキストの編集における整形操作処理で、これをうまく使うと、見た目も美しく、分かりやすい、テキストが打ち込めるのですが、
最近macOS上の素朴なアプリ(application software)に置いて、このタブキーを推した操作で、従来(昔ながらの)反応をしないものが多い事に気が付く、何か特別な理由や流れがあるのだろうか?